僕は自分を許してもいいかもしれない

この数ヶ月、僕はいつ罰せられるのだろうかと考えながら過ごしていた。

僕は自分の人生をめちゃくちゃにしてしまって、周囲の人間も巻き込んだ門で罰せられるにちがいない。僕の過ちを知ったら、誰もが僕を見放すだろうと考えていた。

他人が自分に優しい態度をとってくれたり、良いことが起こると、僕はますます不安になった。いつ最期の日を迎えるかを知らされず、毎日怯えて暮らす死刑囚のごとき心持ちで、良いことの後には酷いことが起こるに違いないと思い込んだ。

そう考えて暮らしてきたが、誰も僕を罰しようとはしなかった。

では、改めて考えてみると、僕を罰する”誰もが”とか”みんなが”っていうのは誰のことだったんだろうか。僕が感じた生きづらさは偽物ではなかったはずだ。なぜ、独りでいるときでさえも、誰かに罰せられるに違いないと感じていたのか?

考えてみるに、僕を罰していたのは自分自身である。自分の影に怯える動物が如く、僕は自分を罰しようとする自分におびえていただけだった。

結局のところ「社会が許さない」だとかは自分が許さないだけで、自分を肥大した主語で語っているだけだ。やたら大きい主語で他人を攻撃する人を見れば、すぐに滑稽さに気付くことができるだろう。誰もが自分の中に思い描く社会を持っており、”自分が”という主語を”社会が”というより大きい主語に置き換えて話しているだけだ。他者から見る自分と、自分から見る他者にはどうしようもない非対称性があって、その釣り合いの取れている人とそうでない人がいる。

僕は自分と同じような境遇にある人と一緒にいたときに、やっとそれを自覚した。自己を責めるときの苛烈さと他者を責めるときのそれが全く違うのである。

僕は他者を責める方向ではなく、自分を許す方向に持っていくことで均衡をとりたい。僕は自分を許すことに慣れていない。だから自分を許す訓練が必要だ。

 

おまけ

自分のものさしで他人を測っていることに無自覚な人ばかり出てくる。でも、自覚したからうまくいくかというとそうでもないんだよね。

誰も懲りない

誰も懲りない

 

 

他人に興味をもつことってなんだろう

僕は「他人に興味を持て」と度々言われる。

 

自分にはこの忠告の意味がわからない。僕は他人に興味津々だ。だから本を読むし、映画を見るしラジオも聴く。どういうことを考えてるか、今一番何をしたいのかとか、なんで働いてるのかだとかが知りたい。でもそういうことを聞いたら避けられてしまう気がして、そういう質問を直接ぶつけるようなことはしない。

 

さて、僕が考える他人に興味津々な人って一体なんだろうと考えると、自分の中で明確なイメージがある。それはTVのワイドショー番組である。

冠婚葬祭に関すること、芸能人と言われる”おなじみ”の人が何をやっただとか、今の流行はああだこうだということがメインのアレである。

僕はあれが苦手だ。苦手を通り越して嫌いである。そんなことが自分と何の関連があるかさっぱりわからないからだ。母は毎日欠かさずそれをリビングで観ていた。犯罪のニュースに怒り、結婚のニュースに文句を垂れる。政治のニュースには不平を漏らす。人が死んだとかいなくなったという事件があれば探偵ごっこを始める。だけど、それが母に何を与えたのだろう。僕には余計なものを背負い込んだだけにしか思えなかった。

僕は自分で選んだ映画や本を好んで鑑賞した。もちろん他人が作ったものであって、何処かから生えてきたものではない。なんでそれらを好んで鑑賞するかと言えば、他人が何を考えているかについて興味津々だからだ。

 

今日も僕は他人が作った何かを見る。でも僕は一生言われ続けるに違いない。「他人に興味を持て」と。これは決定的なすれ違いなのだ。

 

おまけ

僕は素人なのに自分に病気を当てはめたがる悪癖がある。昨日見つけて「自分はこれじゃないのかなあ」って思ったやつがコレ。いまはそうでもない気がしてきている。

スキゾイドパーソナリティ障害 - Wikipedia

まえがき

このブログについて

コンセプト

表現力の再構築

経緯

2011年からtwitterを始めた。映画とか読書の記録とかに使っていた。毎日なにかしら書いた。だが満たされなかった。2015年からPodcastを始めた。満たされたのは最初のうちだけだった。話せば話すほど、自分には話すべき特別なことなど何もないのかもしれないという恐れが大きくなった。今はちょっとした窮地をなんとか乗り越え、生活はさほど苦しいものではなくなったが、乗り越えるべきものがなくて空虚になった。

目的

自分が何を考えているのか、それを表明することには一定の価値がある。人によってはそれを過剰に大きく見せたがったり、全く意味のないものだと決めつけて隠したがる。僕は後者だった。

このブログでは、自分の考えていることを文章で表現する手段を身につけることを主な目的とする。数ヶ月や数年は無力さを味わうことになるだろう。表現の力というのは日頃すこしづつ繰り返さねば衰えていく能力であるから、自ら避けていた者にその力がないのは当然のことである。だが、失った力を取り戻していくということほど心が踊るものはないのではないだろうか。その過程こそが空虚な生活を満たしてくれるに違いない。僕は自分を表現することから一生逃げ続けることもできるだろう。僕は自分を隠しながらこれまで生きてこれたし、これからも生きていけるだろう。それは一つの道だが、唯一の道ではない。一生逃げ続けて終わりたくない。無様でも向き合ったのだという確信が欲しい。そのために文章の形をとって表現すると決めた。

ドラマの謎職場について

普段ドラマを見ないのだが、気まぐれで録画したドラマをいくつか観てみた。

ドラマを観ていてこう思うのは変だが、「ああ、ドラマっぽい」と感じる。テンプレ感が拭えない。どんな職業を舞台にしたドラマであれ、同じように感じてしまうのだ。このマンネリ感の正体はなんだろう?

 

そこで思い当たったのが謎のオフィスルームだ。

・だだっ広いフロアに、デスクと椅子が島状に分布している

・仕事に直接関係しない、基本的には雑談をするための空間として機能する

 

この空間は学園ドラマにおける職員室に由来していると考えられる。企業を舞台としたドラマならば、校長は社長に、嫌味な教頭は副社長や専務とかに置き換えられている。職員室はその空間的な配置のみならず、そこに存在する人物を含めて、システムとして機能しているのだ。これを”職員室システム”と呼ぶことにする。

 

どのTV局のドラマを見ても似たり寄ったりの印象を受けるのは、この職員室システムに起因するように思える。書店を舞台にしている『戦う書店ガール』ですら、だだっ広いオフィスルームで会話の大半がなされるのだ。

 

撮影上の都合や、セットの問題もあるのは分かるが、このシステムが土台にあるかぎり、中心に据える職業を変えても全然パッとしない、というか新しいものを見ている気がしない。