僕は自分を許してもいいかもしれない

この数ヶ月、僕はいつ罰せられるのだろうかと考えながら過ごしていた。

僕は自分の人生をめちゃくちゃにしてしまって、周囲の人間も巻き込んだ門で罰せられるにちがいない。僕の過ちを知ったら、誰もが僕を見放すだろうと考えていた。

他人が自分に優しい態度をとってくれたり、良いことが起こると、僕はますます不安になった。いつ最期の日を迎えるかを知らされず、毎日怯えて暮らす死刑囚のごとき心持ちで、良いことの後には酷いことが起こるに違いないと思い込んだ。

そう考えて暮らしてきたが、誰も僕を罰しようとはしなかった。

では、改めて考えてみると、僕を罰する”誰もが”とか”みんなが”っていうのは誰のことだったんだろうか。僕が感じた生きづらさは偽物ではなかったはずだ。なぜ、独りでいるときでさえも、誰かに罰せられるに違いないと感じていたのか?

考えてみるに、僕を罰していたのは自分自身である。自分の影に怯える動物が如く、僕は自分を罰しようとする自分におびえていただけだった。

結局のところ「社会が許さない」だとかは自分が許さないだけで、自分を肥大した主語で語っているだけだ。やたら大きい主語で他人を攻撃する人を見れば、すぐに滑稽さに気付くことができるだろう。誰もが自分の中に思い描く社会を持っており、”自分が”という主語を”社会が”というより大きい主語に置き換えて話しているだけだ。他者から見る自分と、自分から見る他者にはどうしようもない非対称性があって、その釣り合いの取れている人とそうでない人がいる。

僕は自分と同じような境遇にある人と一緒にいたときに、やっとそれを自覚した。自己を責めるときの苛烈さと他者を責めるときのそれが全く違うのである。

僕は他者を責める方向ではなく、自分を許す方向に持っていくことで均衡をとりたい。僕は自分を許すことに慣れていない。だから自分を許す訓練が必要だ。

 

おまけ

自分のものさしで他人を測っていることに無自覚な人ばかり出てくる。でも、自覚したからうまくいくかというとそうでもないんだよね。

誰も懲りない

誰も懲りない